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登戸散歩道
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散歩道目次登戸散策マップ登戸の歴史
登戸の歴史
 登戸のトは土地、ところの意味だった。つまり、この土地がちょうど多摩川の平地から多摩丘陵へ登るところに位置しているので、この地名がついたとみうけられる。ここは江戸から津久井へ向かう津久井往還の一つ。関東の山のふもとに養蚕が盛んになり、絹の生産がのびるようになった江戸の中期以降、馬の背に津久井の絹をつけて運ぶ商人のゆききでにぎわったところである。今は南武線と小田急線の交わるところにあり、川崎北部地域の中心となっているが、新宿へ十数分というこの町は、川崎にありながら顔は東京を向いているといえよう。
(「川崎地名考」川崎市立中原図書館発行より)
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北向地蔵と馬頭観音
 特別のご利益(りやく)があると信じられ、子育て地蔵として親しまれている北向地蔵。また馬の保護神として、登戸を中心に広い地域の人々によってつくられた馬頭観音。共に江戸時代のもの。《現地の立て札による》
北向き地蔵と馬頭観音01 北向き地蔵と馬頭観音02
登戸の渡しと水道橋
 登戸の渡しには、人を乗せる舟とこれよりひとまわり大きくて荷車などを運ぶ舟があり、船頭(せんどう)が川の流れを見ながら舟を巧(たく)みに繰(あやつ)っていたものです。渡しを唯一の交通手段として、夏の桃や秋の多摩川梨、禅寺丸(ぜんじまる)柿といった季節の果物が川を渡り、津久井の絹や黒川炭など特産物が東京に運ばれました。《川崎歴史ガイドより》
 ※日本民家園に船頭小屋が残されています。
登戸の渡し01 登戸の渡し02
石屋と石屋河岸
 多摩川の水運と津久井道の便で大いに繁盛(はんじょう)した吉澤石材店は江戸後期からの店。伊豆や真鶴(まなづる)の石材は渡し場のすぐ下流にあった淀(よど)みから荷揚げされた。その船着き場を石屋河岸と呼んだ。《現地の立て札による》
石屋と石屋河岸01 石屋と石屋河岸02
登戸宿と柏屋
 登戸は小杉や溝口に比べ、居酒屋、煮売屋(にうりや)などの多い盛り場的な賑わいに宿だった。旅人を泊めた柏屋は明治の末には料理屋を兼ねるようになり、多摩川行楽客に鯰料理などが喜ばれた。《現地の立て札による》
登戸宿と柏屋01 登戸宿と柏屋02
登戸の下駄づくり
 丘陵地の桐(きり)などを使って盛んだった登戸の下駄づくり。天保9年の記録では14戸に及ぶ。桐材をコウラという形に切って庭先に積み上げた独特の光景は昭和の初め頃まで見られた。《現地の立て札による》
登戸の下駄づくり01 登戸の下駄づくり02
二ヶ領用水と小泉橋
 稲毛領、川崎領を潤した二ヶ領用水はここ小泉橋で津久井道と交わる。架橋は江戸後期の豪農小泉利左右衛門、改修は4代後の弥左衛門。橋の裏に二つの時代を示す天保、明治の文字が残る。《現地の立て札による》
 ※現在は新しい橋に架け変わっています。
二ヶ領用水と小泉橋01 二ヶ領用水と小泉橋02
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